綾鷹物語

第五話 御茶壷道中の栄誉、そして挑戦の時代へ

徳川家光、御茶壷道中を制定

徳川幕府がうまれ、政治の中心が京都から江戸へ移ってからも、徳川家康は宇治のお茶を好み、宇治から江戸へ茶葉を取り寄せ楽しんでいました。その後二代将軍秀忠、や三代将軍徳川家光をはじめとする将軍家に、宇治のお茶は愛好され続けました。寛永4年(1627年)、家光は、幕府が朝廷に献上するための茶葉と、将軍家で使用するための茶葉を、上林家を筆頭とする宇治御茶師たちに作らせます。それ以降、毎年新茶の時期になると宇治から江戸へお茶が運ばれるようになり、寛永10年(1633年)頃に家光によって制度化され、将軍家の権威を示す儀式として毎年行われるようになりました。当初は、宇治採茶使(うじさいちゃし)を務める徒歩頭(かちがしら)に、茶道頭、茶道衆らが付き添うものでしたが、後に「御茶壺道中(おちゃつぼどうちゅう)」と呼ばれる大々的な行列になりました。

徳川家光肖像画

「御茶壷道中(おちゃつぼどうちゅう)」が行われていた頃、お茶は大変貴重なものであり、御茶壷道中で運ばれていた茶壺の中には、一壷で大判1枚の価値に相当するものもあったと伝えられています。御茶壷道中は、当時貴重だったお茶を江戸の将軍家に届ける非常に重要で権威ある行列だったのです。
宇治の有力茶師として将軍家から厚い信頼を得ていた上林家は、御茶壷道中を取り仕切る茶頭取に任命され、総責任者として取り仕切っていました。

御茶壷道中の総責任者・上林家

御茶壷道中は、宇治から江戸にお茶を運ぶ行列で、まずは空の茶壷が江戸から宇治に運ばれ、宇治で茶葉を詰めた後に江戸に運ばれました。茶頭取を務める上林家は、朝廷と将軍家に納める茶葉の数量や取引額などを取り決めるだけでなく、御茶壷道中が滞りなく行われるよう、宇治で江戸からの茶壷を迎え入れる準備を整えていました。
そのひとつとして、毎年製茶の季節を迎えると「御物御茶壷出行無之内は新茶出すべからず」(朝廷と将軍に御茶壷を納入するまでは新茶の売買を禁止する)と記した高札を上林家が街中に配り、その高札は宇治橋のたもとなどに立てられました。さらに、上林家の指導のもと宇治の人々は家の内外の掃除を行ったり、手桶に水を貯めて火災に備えるなど、江戸からの茶壷の到着に万全を期したと伝えられています。

宇治・上林記念館に残る御茶壷道中の茶壷

また、当時の御茶壷道中の行列の経路については諸説ありますが、江戸を出発した空の茶壷は東海道などを通って京都へ向かい、宇治に到着すると、上林家の指示で碾茶(てんちゃ:抹茶のもととなる茶葉)を茶壷に詰め、中山道を通って江戸に戻ったといわれています。元禄時代までは、途中、爽涼な甲州谷村(現在の山梨県都留市)に茶壷を一旦保管して夏を過ごしてから、江戸に入ることが多かったそうです。
その道中の様子を歌ったと言われているのが、わらべ歌として知られる「ずいずいずっころばし」です。「茶壷に追われてトッ(戸を)ピンシャン、抜けたら(通過したら)ドンドコショ(やれやれ、と息をつく)」と歌われているように、庶民は御茶壷道中を顔をあげて見ることすら許されず、通りすぎるのを恐る恐る息を潜めて待っていたようです。当時の庶民が、いかに御茶壷道中に対して畏怖の念を抱いていたかを読み取ることができます。

その後、年々、御茶壷の数も行列の人数も増えていき、御茶壷道中は、多い時には、千人以上の人たちが百個を超える茶壷を運ぶ、絢爛豪華な行列であった、と伝えられています。この制度は慶応2年(1866年)、明治維新(明治元年)のわずか2年前まで、実に約240年ものあいだ続けられたのでした。

上林春松本店の章

  • 第一話 戦国の覇者、信長と上林家
  • 第二話 太閤の御茶頭取・上林家の誕生
  • 第三話 利休・織部・遠州が愛した上林家の茶
  • 第四話 上林、茶の天下をとる
  • 第五話 御茶壷道中の栄誉、そして挑戦の時代へ
  • 最終話 上林春松本店、親子二代が語る「上林春松本店と綾鷹」

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