綾鷹物語

第二話 お茶の伝来と拡がり

栄西から明恵へ、茶種から茶園へ

京都市右京区栂尾(とがのお)の山中に、お茶と関わりの深い古刹(こさつ)があります。それが、鎌倉時代の前期、明恵(みょうえ)上人が再興した高山寺(こうさんじ)です。明恵の弟子が記した『栂尾明恵上人伝記』によると、明恵は茶祖・栄西から禅の教えを受けており、その際に贈られた茶種をこの地に播いて栽培を始めたと書かれています。また、茶種を入れて栄西から届けられたという漢柿蔕茶壺(あやのかきへたちゃつぼ)が、高山寺に伝えられています。茶の功徳を学んだ明恵は、修行に勤しむ衆僧にも積極的に飲茶を勧めたそうです。今も高山寺では、毎年11月になると明恵に新茶を献上する法会「献茶式」が、境内にある開山堂で催されています。

左:明恵上人肖像画(高山寺蔵)右:「日本最古之茶園」碑

「本茶」か「非茶」かを競い合う

明恵が栂尾に播いた種から育った茶は、いつしか茶園となり、その後約2世紀にわたって発展しました。川霧が深いなど、栂尾は茶栽培に適した条件が整っており、良質な茶が生産されました。その質の高さから栂尾で栽培されたお茶を「本茶」、それ以外の産地で栽培されたものは「非茶」と呼ばれるようになります。
南北朝時代の書物とされる虎関師錬(こかんしれん)が著した『異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)』には、「我が国の茶は京都の栂尾を第一とし、仁和寺・醍醐・宇治・葉室・般若寺・神尾寺などがそれに次ぐ」とあります。当時、茶はすでに畿内だけでなく関東などでも栽培されていましたが、「天下一の茶」としてもてはやされていたのは、栂尾茶だったのです。

鎌倉時代の末期には、「本茶」か「非茶」かを飲み比べて当てる「闘茶」が、武家や公家、僧侶の間で流行します。いわばお茶の産地当てで勝敗を競うというものでした。南北朝の動乱期になると「闘茶」は、華美で贅沢な「バサラ」の風潮と結びついて、きらびやかなものになっていきます。近江国(現在の滋賀県)の守護大名だった佐々木道誉(どうよ)など遊興にふけった「バサラ大名」たちは、仲間を集め茶寄合を開き、贅を尽くした宴会の中で闘茶を楽しみました。

お茶の章

  • 第一話 日本人、茶と出会う
  • 第二話 お茶の伝来と拡がり
  • 第三話 今日の煎茶ができるまで
  • 第四話 世界に広まる日本のお茶
  • 最終話 現代に伝わる、日本のお茶文化

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