綾鷹物語

第三話 今日の煎茶ができるまで

宇治の「天下一の茶」は碾茶(てんちゃ)

私たちが日ごろ慣れ親しんでいる煎茶は、江戸時代の中頃、永谷宗円(そうえん)によって完成されました。

戦国時代の初めに「天下一の茶」として愛されるようになった宇治の茶は、「覆下(おおいした)栽培」によって生産された茶葉を摘み取り、これらを蒸して作った碾茶(てんちゃ:抹茶のもととなる茶葉)でした。覆下栽培とは、茶樹を藁(わら)束や莚(むしろ)などで覆って育てる栽培方法で、「被覆(ひふく)栽培」ともいわれています。日光を遮ることによって、茶の旨み成分であるテアニンのカテキンへの転換を抑え、渋味の少ない旨み豊かな茶葉を栽培することができます。また、寒風や霜を防いで新芽が硬葉(こわば)になるのを遅らせることにより、柔らかく色鮮やかな茶葉を育てることができます。宇治のお茶は、このような栽培方法で育てられた茶葉を使用して作られていました。

宇治市内覆下園

庶民が飲んでいた煎茶とは

この宇治の覆下栽培による碾茶(てんちゃ)は、抹茶の原料として将軍家や大名家に代表される当時の上流階級に愛好されました。しかし、覆下栽培は宇治の「御茶師三仲ヶ間(さんなかま)」にしか認められていませんでした。そこで、戦国時代から江戸時代にかけた庶民向けのお茶は、覆いをしない露天園で栽培されたものでした。
一般庶民のあいだで飲まれていたお茶は、茶葉を若葉・古葉の区別なく摘み取り、灰のアクを加えた熱湯でゆがき、冷水で冷やしたあとに乾かして煎じたものでした。また、その水色は茶色で、今日の煎茶とは色、味、香気ともにかなり異なるものでした。

江戸幕府4代将軍徳川家綱の時代の万治3年(1660年)には、長崎・興福寺の僧に招かれて禅僧の隠元(いんげん)が明から渡来しました。インゲン豆を日本にもたらしたことでも知られる隠元は、自ら宇治に開山した萬福寺で唐茶を作り、お茶の普及に貢献します。唐茶は、茶葉を蒸すのではなく、鍋か釜に入れて揉みながら炒った釜炒り茶でした。一部の人たちに愛用されましたが、唐茶の味わいは強く、日本人向きではなかったようです。

隠元禅師(萬福寺蔵)

お茶の章

  • 第一話 日本人、茶と出会う
  • 第二話 お茶の伝来と拡がり
  • 第三話 今日の煎茶ができるまで
  • 第四話 世界に広まる日本のお茶
  • 最終話 現代に伝わる、日本のお茶文化

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